詩人と音楽とわたし

他のことは全部棚上げにして、蜂飼耳というキテレツな名の詩人の詩を高らかに唄おう。
詩においては、散文で、意味の薄弱さを胸に抱きながら、言葉のへりを味わう。注意深く読んでいないと、彼女の詩にある生は逃げてしまう。透明度のある世界に足を踏み入れる時は、逃げ場をつくることが許されない。それは一種の予感に近く、時々迷いこんでしまう世界だ。

 はじめて出会った蜂飼耳の「雨乞い」について記す。雨雲を追いかけて移動しつづける飛べないミューという鳥の話。「いろいろ選べるようでいて、選べない。選んだつもりでも、実際にはなにも選んでいない。雨雲ほどにも目には見えないなにものかに導かれて、どんどん流れていくのだ」。この刹那感は原作 田辺聖子の「ジョゼと虎と魚たち」が映画化され渡辺あやの脚本によって足されたF.サガンの「一年ののち」の一文にも近い。

「いつかあなたはあの男を愛さなくなるだろう」と
ベルナールはジョゼに言う。
「そして、いつかぼくもまたあなたを愛さなくなるだろう」とベルナールは続ける。
ジョゼは、「ええ、わかっているわ」と言う。

詩であろうが音楽であろうが、何か秘密を共有してるかのごとく感じさせるものがある。詩は私的なものである方が、気になる。蜂飼耳はかく言う。
私にとって、言葉は常に個人的なものだ、という要素がはずせないものとしてあります。それは一人一人体験が違うということで、例えばソシュールなどが言っていることとつながってくると思いますが、一つの言葉に対してそれぞれ違う体験を積み重ねている。あるいは積み重ねてしまってもいる。それを交換して、どういうふうに意味が通じ合っていくのかということに興味があります。通じないと思うんです。コミュニケーションは不可能だ、と思っているんです。日本列島に住んでいて日本語で生きていれば、日本語を使っているから通じ合えるんだということではないはずです。だけど日常の社会においては、言葉の表層では交換し合っているから理解し合える。しかし実はわかり合えないというか、微妙にずれている。微妙なずれが、表層での理解に阻まれて見えないし、いつも押し隠されていると思います。理解が逆に阻むんです。私はそのずれの方が気になって、たとえこの話がいま相手に通じたと思っても、やはりそこでこぼれ落ちたものがある、と感じて、言い表しきれない、伝えきれないと思います。そのあたりの不安や疑いが、一つの単語を漢字にするか仮名にするかという文中での選択に押し出されてくる、ということはあります。

これは限りなく、文字稼ぎに引用したにすぎないが、この個人的想いを削る方が難しいし不自然だと思う。私は文字化された文章を見たとたんに、走り読みをスタートする。音楽を聞いている自分の耳を私は疑っているし、左から右へ受動して流される現象を止めたいと思う。脳は全てを記録せず、都合よくまたは都合悪くも記憶を操作する。

話は変わるが、このフォントはOsakaというらしい。Macの大阪支社の社員がつくったりしたのだろうか。どうでも良い話だが、詩においてもデザイン的字面によって構成されているのもある。それは音の配列を見ているようで、謎解きのようで細胞の配列を間違って並べたようにも見えまいか。

さて、蜂飼耳に戻ろう。蜂飼耳は中原中也賞を「いまにもうるおっていく陣地」によって受賞している。これから先引用する詩をエロス目線で見てみよう。
「もしいま心に空虚があるとすれば、それは何かを譲り受けるため、誰かが潜り込んでくれるための空間だと思った。」
「おとこたちは射精を夢みて
 ひるも よるも ながれのなかに
 そのただなかに
 らじお・たいそうを放つのだ

少女たちはやわらかい腹に
うまれながらの石を抱えるため
あおく まつげまで あおく 染まって
羊歯がほごける
雑音のささくれに
そのまんなかに うずくまる」

なんとなくの憂いと湿っぽさが女性らしいと思う。吉本ばななの本の中にも穴についての話があった。相対的に身体はかくように出来ていて、現代においてそれはパーツとして見なされ取り外したり付け替えたりも出来る。蜂飼耳は人が道を歩いて他の生物に食われないことが不思議だと言っている。人が人を襲ったりすることの方が路上では多いだろう。人は野蛮であることを忘れてはいけない。雑音は日常の中に潜んでいるのだから。

東京の騒音と大阪の騒音を目をつぶって聞き比べたら、どちらか判るだろうか。蜂飼耳は「偶然と奇跡の瞬間」の中で志賀直哉の小説を引用している。
「直角に交わる十字路を、バスは西から東へ。クマは南から北へ。その瞬間、クマに気づいたのは奇跡的なことだった。気づいて、娘が「クマだ」と叫ぶまでは、わずか三秒ほど。「十字路での三秒のチャンスは偶然というにしてはあまりに偶然すぎる。私は次のような計算をしてみた。一日が八万六千四百秒、一週間は六十万四千八百秒。それを私達がクマの発見に費やした三秒で割ってみると二十万千六百。つまりそれは二十万千六百分の一のチャンスだったわけである」

クマは犬の名前であり、この時点でややこしい。めったにない偶然を人はセレンディピティと呼び、
盲亀浮木と呼ぶ。100年に1度、大海の底にいる盲亀が波の上に浮かびあがる際に、たまたま流れ着いた浮木の穴から頭を出すという話である。志賀直哉のわかりにくい話に蜂飼耳はこう付け加える。
「妙な例かもしれないが、一円玉を二十万六千八百個置いて、それから、その一つを選び出せといはれても、それは全く不可能だらう。ところがさういふことが実際に起こったのだ」
起こったのだと言われたら、もはや信じるしかない。最後は詩人とリスナーの信頼関係につきる。

ただただに詩人は自分を消し去るすべも、立ち現れるすべももっているにもかかわらず、無頼化している。音楽家も同じだと思える。読み取る側は沸き上がる現象を、雲をつかむかのように手を差し伸べて傍観するのだ。そして、詩と音にまみれ、拮抗し、息づかい荒く、たちうちまわる。毒のようなものを蜂飼耳は飼っているに違いない。言葉の羅列に身をまかせている内に時間はすぎていく。たまに会うくらいがちょうど良い塩梅だろう。溺れる蠅は雲をもつかめまい。詩も音楽も溺れた者は迷路に迷うように抜け出せなくなり、時間に取り残される。